新学期隊

週刊文春」がキオスクから消えた日の夜。
前回書いた「いわゆるひとつのチョーサン主義」のことを思い出した。チョーさんはどうなったのだろう。あの漫画が単行本にまとまることはもう無いだろうから(過去に2冊単行本が出ている)、その瞬間を読むことは二度と無いのだな。

と思ったら翌日カレー屋であっさり読むことができた。
チョーさんは元気でした。2本の4コマのうちの1本目で普段とはちょっと違う「病」の影のようなものを見せ、ゴジラ子に奇妙がられている。そして2本目(というより1本目の3コマ)からはいつもの漫画に戻っていた。

たぶん、漫画のチョーさんはモデルの長嶋本人とは別に生活していくのだろう。当たり前の話だ。風刺漫画の狂言回しに過ぎないんだから。本人が4コマの中で闘病生活を送るとは考えにくい。でも、もしモデルが死んでしまえば、あの有名人だけが暮らす世界も漫画と同じように消えてしまうのだろう。それは作者が死んだり、雑誌が廃刊することによって消えてしまう場合よりも、より寂寥としたものがあるんじゃないだろうか。
(追記・「(現実の)モデルが重篤」→「(漫画の)キャラクタは元気」という図式は、かつて都市伝説として流れた「ドラえもん」の最終回での、「(夢の中の)のび太は元気」→「(現実の)のび太は実は植物人間」の裏返しだ)

しかし、時事風刺漫画にこんなにセンチメンタルになることもないよな。最近はほとんど読んでなかったんですが、20年近く前から読んでるので(1983年連載開始)、あの世界に思い入れがあるのです。長嶋自体には思い入れは無いんですが。


「CV」創刊準備号を読む。
菊地成孔の100冊」のうち、自分が読んでいたのは12冊。100冊コンプリートするのはまず無理だろうなあ。いくつかは図書館で探してみよう。とり・みきの漫画の中から「人達」を(あまり深く考えないでだろうと思うけど)選んでいた。
鶴見済はある意味彼岸にいってしまったような文章。「無気力製造工場」「檻の中のダンス」からはつながっているのだろうけど。文中で指定されたBGMは小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む」。うーん、この先の二人の行方はいかに。

「犬は…」と「完全自殺マニュアル」の発売は同じ年(1993年)なんですね。